HOME会社案内車検エネステヒストリーお問い合わせ
 
第2章◆発展期 /張幹社長から秀一専務時代へ

 
 
日本石油株式会社(現在:新日本石油梶jと特約店契約
   

当社が日本石油と「特約販売契約」を締結したのは昭和24年2月26日であった。公団から日石本社に戻った新井浩販売担当常務の仲介によるものであった。当社は直後、資本金200万円をもって株式会社に改組し、社長に後藤張幹が就任した。大東亜戦争突入以後の当社と後藤張幹は、自主的な経営活動も適わず、神奈川県揮発油重油部卸商業組合理事を初め、県石油配給組合(その後は同会社社長)として国策に沿った一種の公務ともいえる部門での立場に置かれ、戦後復活の第1歩の経営基盤をどういう形で形成したか定かではない。個人商店として家内身内の資金を集めた結果だったのかもしれない。 一方、昭和18年3月に帝国秘密探偵社が発行した『大衆人事録』(14版)には後藤張幹の名が掲載され「油商、綜合課税214円」と身代が記述されており、これから逆算して資産内容を推測できるが、その調査は後代の社史編集者に託する。

こうもりマークの
カルテックスのプレート
 
豊商会の商標
 
日本石油販売の看板

戦後における「日本石油」の特約店網形成の歴史は特殊製品販売の分野から始まった。21年5月に屋根葺き用防水紙(ルーフィング)メーカーとの間でアスファルト関連製品として締結されたものが最初だった。23年秋になると石油製品販売の統制解除が確定的となり、これらの業者と、戦前から石油販売で取引のあった旧日本石油系を中心に「特約店」を復活させる施策を決め、同年末までに全国「74店」を選定している。

日本石油は翌24年2月、特約店網形成「第2弾」として「81店」を加え、当社が「選考基準を満たしている」としてその1社に仲間入りしたのである。特約店は155店となったが、日本石油ではさらに翌月、29店を追加し、合計184店をもって同年4月以降の統制撤廃に備えた。なお全国184店中、関東地方への割振りは53であった。

日本石油の特約店選考基準は、▽従来から日本石油系・小倉石油系として取引があった ▽戦前は他社系だったが石油公団の推薦がある ▽原油輸入で提携したカルテックス・オイル・ジャパンの推薦する業者 ▽戦時中に配給所を運営していた地域有力店 ▽中小店統合後の大型店舗業者一一などが対象となった。当社の場合は戦前は三菱系であったが、統制時代に「高島町配給所」ほかを運営していたことはもちろん、後藤張幹が県石配の社長として県下業界の指導者だったことが認められたのである。 特約店に対する日本石油の基本方針は「1店1社主義」を強調し、「日本石油以外との契約関係にある業者」を排除し、クロス契約するのを嫌った。そして各特約店の販売区域には厳重な線引きを行い、重複による特約店間の無益な競争を避けたのであった。

日本石油は戦後の販売自由化にあたり「特約販売契約」を規定して全国に販売店網を形成していったが、当時の業界をはじめ国情も流動的であったため、3か月毎の暫定契約とし、現在に準ずるような正式な形式は3年を経てからであった。