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第3章◆充実期 /後藤秀一の時代

 
 
秀一専務始動
   

後藤秀一会長(近影)

入社 5年、まだ高島町給油所の現場に作業服姿で立っていた後藤秀一に危機回避の重大な役目が担わされたのは、嗣子として当然の運命であった。秀一は、急遽作った専務の肩書きを刷り込んだ名刺を手に、経理担当者を同道して、当時、銀座西にあった日本石油東京営業所に清水岩蔵所長と松室課長を訪ね、当社が直面した緊急事態を報告し、今後の取るべき方策を相談した。急場を凌がなければならないという気持ちで必死であり、社員とその家族の生活を考えると真剣にならざるを得なかった。やがて「従来通りの関係を継続する」が「その代わり、集金をしっかりやるように」との返事をもらい、逆に励まされて帰社した。当時の日本石油への納金は、月末に会計担当者が持参しており、日本石油本社には銀行の職員が出張してきていた。前日までに社員が手分けして集金した小切手や約手をまとめ納めるわけだが、日本石油に詰めている銀行員が帰る時間を見計らって渡す、ということが続いた。
こういう手段を取ることで当座引き落としに時間的猶予が生まれ、その間に資金手当てするわけである。秀一はこういう経験をもとに資本の充実と内部留保の蓄積がいかに重要であるかを知り、また、全面的な銀行依存の危険性を教わった。しかしながら資金繰りの安定までは 2年ほどの月日を要しなければならなかったのである。幸いなことに、その後、この努力が実って、新たな銀行取引関係を拓いていくことができた。

父後藤張幹が倒れた日、後藤秀一は「今日から専務になってもらいます」といわれ、専用の部屋を与えられた夜、父が綴ってきた業務日誌を隅から隅まで読んだという。
日誌は銀座伊東屋、三越製の美濃紙を綴じた「複寫用箋」や「大學ノート」に書かれていた。「用箋 昭和 24年7月起 後藤用」と記された「覚え」は社長が特注したもので、「横濱市西区表高島町貮番地、株式會社豊商會」と印刷され、山下町、片瀬、藤沢の 3営業所も住所と共に刷り込んである。本社は現在と同じ場所であり、電話は「神奈川C 2563番」となっている。秀一はこれらに書かれている「銀行との関係」「卸している販売店との状況」や「資産に関する控え」などを初め、項目を一晩で読み、会社に関する経営状況を頭の中に叩き込んだ。秀一より 2年遅れて入社した元社員は、この頃から経理所属となって、前述の「綱渡り的資金繰り」を経験している。その中で観てきた若き後藤秀一専務の素顔を、「若年で経営の修羅場を味わっただけに、外観に似合わず、ここぞという時の決断力がある人物だ。決断は的確だった。人の力を旨く引き出す能力があり、部下に権限委譲を図って重要な仕事を任せるという現代風の経営術を駆使した。現在の豊商会の基盤を築いたのには、当時の専務にそれなりの理由や力があったからです」と語っている。